今までなら、濃厚〜!な香水が大好きだったのです。
きっと年を重ねてそうでもなくなってきたのか、
最近はサンタマリアノヴェッラがお気に入りです。
ハンニバルや、007などでも名前があがりますね。
サンタマリアノヴェッラ
ここは40種類以上香水があるから選ぶ楽しみもあります。
銀座のお店もとても素敵です。本当はフィレンツェ本店に行ってみたいです。
今私が持ってるのは5つ。
サンタマリアノヴェッラ…ベルガモットが香る、爽やかだけではない奥深いハーブの香り。
私の肌では、30分位で消えてしまいます。が、昔ながらのレシピなのです。
通勤にはこれくらいがちょうど良さそう。
16世紀にカテリーナ・ディ・メディチのために調合され、
彼女がフランスのアンリ二世のもとに嫁ぐ際には、専用の香水調合師を
フィレンツェから連れて行ったとの逸話が残る名香です。
(ホームページより引用)
ローザ(バラ)…大学生の頃から使っていたRed RosesというJo Maloneのコロンとは
ちょっと違いますが、夏に白いワンピースを着て香らせたら素敵でしょう。
ポプリ…これは全員試すべし。といっても好き嫌いがはっきり分かれそうですが
フィレンツェの丘から採集された草花や植物の実、松ヤニなどを数ヶ月テラコッタの
壺に寝かせ熟成させる過程で誕生する香り。芳醇でスパイシーな香りは世界中の
人々から愛される定番フレグランスです。
(ホームページより引用)
だそうです。私が先日ローザと合わせて外国の方にべた褒めされたのがこの香りです。
これからの季節は厳しいという口コミもありますが、私はありだと思います。
男性がつけても素敵だと思います。
フリージア…素敵な香り。石けんのような清潔感のある香りです。癖がないので、
ほかのコロンと合わせるのが得意。ですが、私から香るのは
素敵すぎてしまうんじゃないかと付けるたびにひるんでいます。。。
南アフリカ原産のフリージアをベースに生まれた甘く女性的な優しい香り。
花言葉の「純愛」、「純潔」を象徴するかのような可憐な香りです。
(ホームページより引用)
…ほら。。。
ザクロ…一押しというか、ポプリとどちらが一番お気に入りか迷う香り。
甘酸っぱい中にパウダリーさがあります。ポプリと同じく秋冬によいと言われますが、
夏でも良いと思います。海外のホテルのお風呂の匂いがします。
ヨーロッパの方はザクロが本当にお好きなんだとか…でもこれはザクロの香りではなく
ザクロをイメージした香りだそうで、全然ザクロではありません。
20世紀前半に柘榴をイメージしてつくられた香り。トップノートにかすかに香る
シトラス系、ミドルノートは甘めのアンバー、ベースにウッディー調の
サンダルウッドなどを調合し、植物性のムスクをアクセントに加えました。
甘酸っぱさとパウダリーなアンダートーンの絶妙なバランスの調合は、
記憶に残るヨーロッパの香りです。
(ホームページより引用)
ね。20世紀前半の香りだそうですが、サンタマリアノヴェッラと同じく
良い香りは時代など関係ないのですね。
どれも天然香料を使っているそうで、香水酔いしてしまう人にこそ試してほしいです。
手放したミモザ、ジネストラは、どちらも「女性っぽすぎる!」「男性っぽすぎる!」と
感じてしまいました。似合う方にはとても似合うのでしょう。
私は、大学生の時に教育実習をやって、指導教官の先生に
指導案をかなり厳しく指導されました。(今見るとかなりひどいのですが)
大学の中では、実際に目の前に子供がいないし、教えた事もないので
なんとなくの想像で指導案を作成するしかありません。当然、大学の先生も
その前提で指導にあたって下さるので、実際の教育現場で通用しないものでも
「可」にしてしまったんだと思っていました。
教育実習中、何度も「もっとちゃんと教えてくれれば良かったのに!」と
恨めしかったものです。
けれども・・・
最近思うのです。
もしかしたら、大事な事を大学の先生は、当時の講義でちゃんと教えて
くださっていたのではないかと。ただそこに、私の無知による理解力が
及ばなかっただけなのではないかと。
今、校内で初任者研修の担当となり、進行役として同席しています。
経験を積んだ先生方が講師としてお話をされているのですが、
初任者の方は当然体験していないことを座学で言われるため、
少し反応が鈍いです。当たり前です。
対して、7年教員をやっているので、そこそこ話の内容を
「実体験を伴った理解」ができます。教員としてとても大事な
ことを講師はお話されているのです。
初任者の方を前に、講師の先生は「数年経験すれば分かるかもしれないけど」
「今は分からないかも知れないけど」などと前置きして話す事も多いです。
けれども、今伝えているのは、もしかしたらその講師の先生が
初任者の時に知っておきたかった、ということなのだろうなと思いながら
聞いています。
きっと、残念ですが初任者の方々にはあまり伝わらないでしょう。
私のように、たまたま機会があり、こういった席につけると、
「そうだったのか」という気付きがあるのでしょう。
**********
同じ事を言われても、同じ事が起こっても、その内容を理解できるかは
その人のタイミングによるのだと思います。
言い換えれば、その人の受け入れ態勢が整ったときとも言えましょう。
常に学ぶことは大事だと思い、年に1回はセミナーに参加しています。
教える側として、教わる側の立場を忘れないためでもあります。
写真家の須田誠さん
レイキマスターの仁科まさきさん
トラベルライターのかさこさん
私は、教えて下さっている事の真髄の半分も理解できていないのではないでしょうか。
しかし確かな事は、今のタイミングで私にとって必要な事は、理解し、
実践できているということです。
レイキヒーリングをできるようになって半年。
手を当てて不調箇所の痛みを和らげる代替療法として、
日本より欧米での認知が高い、気功の一種がレイキです。
「レイキ=霊気」…日本発祥なのです。
私は1月に友達にやってもらって、肩こりや胸のつかえがとれ、
その当時、なかなか朝起きられなかったのにエネルギーが満ちて
起きられるようになりました。レイキの実態も良く分からなかったのですが、
タイ古式マッサージとの相乗効果も期待できるだろうと、
私も身に付けたいと思ったのです。
常に私の周りには精神的に傷ついている人がいます。
カウンセリングはなんだか違うような気がして、そのスキルを身につけようとは
思いませんでした。しゃべれる状態としゃべれない状態や、
しゃべる相手として自分がふさわしいかなどがあるのです。
が、私は何か力になれないだろうかと思い続け、すべもないまま苦しみ、
自分が病んでしまいそうになる時が何度もありました。
だから、自分が受けてみてよかったセラピーは、
身に付けてやって「あげたい」と思っていたのです。
でも、だんだん疲れてくるのですね。やって「あげたい」と思っているからには、
自分が頑張った分だけの何らかの効果を期待してしまうのです。
私がこんなに頑張っているのに!というところでしょうか。
レイキができるようになり、一番最初に習ってよかったと思った点は、
意外なことに、〈相手の力になれる〉ということではありませんでした。
自分にできるのは、「手を当てる事」だけ。
あとは「相手の治癒力に任せる=あるがまま、なすがまま」。
という観点をもつことができた点なのです。
「治してあげたい!」のは私の望みですが、相手の体が望む事とは
違う事を押し付けていたのかもと、青ざめる思いでした。
この観点をもてたおかげで、相手のもっている力を信じて待てるように
なってきました。…待てずに手を差し伸べてしまうと…
相手の自立を阻み、自分をも苦しめてしまうのです。
私に何かできないか、ではなく、手を尽くしたら
じっと見守る事が大事なのですね。
昨日は仕事の緊張で体調を崩し、一日寝ていました。
自分に手を当てても、自分が弱っているので間に合わなかったのですが
遠隔(レイキは遠隔でもできるんです!)を送っていただきました。
そして、今日は昨日の事が嘘のように元気になっています。
このレイキにはいつも驚かされます。
ありがとうございます。
何かが起こったとき、一番最初に動くのは人の感情ではないでしょうか。
(感情はコントロールできるといいますが、私はまだまだ修行中の身…)
誰かとけんかしたり、叱られたりして一時的に最悪な気分になったとします。
そんな時は、無理矢理その場で焦って自分の感情を
解決しようとしない方が良いと思うのです。
そんな感情になったのはなぜだろう?
自分に目を向ける時間が必要です。
何か起こった時に感情が波立つのは、不安を感じるからです。
不安になる必要があるのかどうか、見極めてください。
図星な事を言われて腹が立ったら、できない理由を考えるより
どうすればよりよいのか考える方が建設的です。
下校前に私に叱られ落ち込んだ子の保護者が、
「なにか今日は良い事なかったですか?
落ち込んだままだとかわいそうなので褒めてあげて下さい!」
と言ってきましたが…全然かわいそうではないです。
むしろ、反省の時間をあげた方がよいと思います。
悪いのは叱られるような事をした自分です。
私が子のフォローをする必要は全くありません。
けんかして、「ごめんね」「いいよ」のパターンで
親や先生の前で形だけ解決するのと似ています。
そういう偽のフォローを受けてきた子供たちは、
自分で感情の処理や物事の解決ができなくなります。
「だれかが」やってくれるのを待つ人になってしまいます。
大人はそれで安心しますが、子供たち同士はしばらく時間が
たたないと本当の意味で仲直りできません。そのきっかけを
大人が作る必要はありません。
子供が転んだ時のことが一番分かりやすいでしょう。
子供が転んで、立ち上がり、歩き出すまでに、
子供たちは目に見えなくても自立の階段を上っているのです。
2年前のこと、私は6年生の担任でした。
全校の時間走で当時2年生だった子が目の前で転び、
私はほとんど「反応」という形でその子を立たせようとしたその瞬間です。
2年生の担任の先生が「○○くん、自分で立ちなさい」と遠くから
声をかけたのです。
私はとても恥ずかしくなりました。
私の担任している6年生の子が転んだなら、私も同じように立つまで
見守ったはずです。私は、勝手にその子に立つ力がないと判断していたのです。
誰かを助けてあげると、「いいことをした」と気持ちが良くなります。
でも本当は本人にとっていいことではない場合だってあるのです。
困っている人を目の前に、手を差し伸べないのはとても勇気がいります。
胸が痛むのです。でも、先を見ましょう。
「今」手を貸すことが、その人の「先」にとって プラスなのか、マイナスなのか。
一瞬でも立ち止まって考える習慣をつけたいものです。
病気の人が早く治って欲しい、と思うのは、「自分がその姿を見ているのが辛いから」
「なにもできない自分に焦るから」と最近気づきました。
あなたも実は、そういう思いで相手に尽くしていないでしょうか。
病気が癒えるのはその人の治癒能力にかかっています。医療ではないのです。
こちらは治ってほしいと思っていても、その人にとってはその病気でいる事が
まだ必要な段階の場合もあるのです。
その段階にどれだけとどまっているのかは本人が決める事です。
周囲が焦って良くしよう、良くしようとするほど
病気から離れられなくなってしまうことだってあり得ると思います。
助けない勇気、見守る勇気。
それが、実は相手への本当の思いやりかも知れません。
全4回のかさこ塾のセミナーが今晩で終了しました。
次回の募集はこちら
http://www.sanctuarybooks.jp/eventblog/index.php?e=739
自分の棚卸しワークをやったり、肩書きつきの名刺を作る宿題をやったり、
最後にはプレゼンをやったり、とてもクリエイティブな 4週間でした。
よく、「学校では教えてくれない○○」などという言葉を聞きます。
勘違いしないで欲しいといつも思う。なぜそんな受け身なんだ。
学校では教えません。知り得た知識を体験する場を提供するのです。
体験し、学ぶか学ばないかはその子次第。
もちろん、体験の場の作り方は教員の力量にかかっています。
その後に、学びを行動につなげていくのは、
子供たち自身の意思にかかっています。
行動した子たちは、さらに自分で学べるのです。
答えを教えてもらって、本当の意味で満足するのでしょうか。
ヒントをもらいつつも、自力で宝を見つけ出す方が
価値が増すのではないでしょうか。
かさこ塾は、まさに体験の場の提供でした。
そこで学習する内容は、個々によって違うでしょう。
かさこさんの発する言葉や、用意されたスライドから
感じる部分や刺さる箇所は人によって様々だったと思います。
普段、よく考えたり重要視したりしていることがそれぞれ違うからです。
感じた事をさらに自分の中で熟成し、アウトプットしていくことの
気持ちの良いこと!毎日のブログの宿題は、非常に楽しかったです。
一番大切にしなくてはいけないはずの自分の事を考えない人が
どれだけ多い事でしょう。何が好きか、これからどうして生きていきたいか
即座に答えられる人がどれだけいる事でしょう。
少なくとも、私はこの4週間で自分について深く考える機会を得たのです。
現在進みたい方向も分かりました。
今回のセミナーのように、体験から学んだことが、何よりの宝です。
知っている、のと、できる、のとでは全然違います。
インターネットが発達した現代では、他者の意見や体験談で、
知っているつもり・やっているつもりになっていることが多いです。
気づいたら中身のない年寄りになっていたなんてことのないように
生きていきたいです。
くすぶっている人は、参加をお勧めします。
今日は友達の写真展に行ってきました。
会場に入って、彼女の作品「らしい」作品を探してみたのだけど、
実は目の前にいたのに気づかなかったのです。
とてもクリエイティブなその友達の写真は、「らしい!」と思うような
パンチが効いているのですが、今日は別人のような写真が展示されていました。
きっと、撮る環境がそうさせたのだろうなという気迫。
撮られる側の気迫が、撮る側にも乗り移っている、そんな写真でした。
いつもの彼女の作品は、じわりじわりと自分の内側から上がってくる
何かを感じるのですが、今日のは被写体から直線的にビームが来るような、
そんな感じがしました。
私は、発表することがなくとも、写真を撮る事自体が自己表現だと思います。
沢山の枚数を撮っていくと「自分らしい」写真がだんだん分かってくるのだと思います。
分かってくるけれども、「私はこうなのだ」という、レッテルを貼ってしまうと、
そこからの成長がなくなってしまう気がします。
私の話ですが、ちょうど昨日、マクロレンズを手に入れました。
いつも通りではないけれども、レンズとのつきあい方を学んでいる、
レンズとなじんでいない、妙な距離感やぎごちなさのある写真が撮れました。
この緑のベンチがそうです。
みんなが思う「私」らしくはないかもしれない。けれども、
「意外といいんじゃない」と思えます。
他者の「○○ちゃんはこうあるだろう(レッテル)」を超えたのです。
人からの言葉にならないリクエスト(レッテル)を、
人は知らず知らずに受けてその通りに行動してしまうという話を
聞いたことがあります。その方が、周囲の人と馴染んで
うまくやっていけるからです。人間が生き延びる知恵です。
しかし、自分の本当の思いとは違う場合は???
私の友達は、自分にレッテルを貼らず、新しい自己表現をする決意をし、
大成功しました。
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プロフィール
hazukireiki
1983年生まれ。30歳。
生まれも育ちも東京都の江戸っ子。
都立戸山高等学校卒業。空手部主将。
埼玉大学教育学部卒業後、教員になる。
通級指導学級(情緒障害等)への配属となり、
体当たりで高機能自閉症・アスペルガー症候群・ADHD・
広汎性発達障害等、小学校に通っている児童の指導や、
担任と保護者へのアドバイスを行う。
現在は特別支援学校の自閉症学級で担任をしており
「学校でできることを家庭へ広げ自立を促す」ことを目指している。
レイキヒーラーでもあり、話せない児童の不調箇所を
特定したり癒したりが得意。
今までの経験やスキルを生かし、人々が他力本願ではなく
「自立」することで人生をより楽しくする活動に注力している。
好きなことは、レイキヒーリング、写真、サルサ、メイク
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